たまご社発 食育通信

イラスト©森泉 千亜紀
「名シェフが教えるおいしい野菜料理」
(株)旭屋出版

名シェフが教えるおいしい野菜料理

その1

「食教育」と「食育」、
 どっちだろ?


食教育、食育といった言葉が日本で市民権を得たのは、ごくごく最近のこと。いいえ、いまでも「なに、それ?」とおっしゃる方は、まだまだいらっしゃるかもしれませんね。

私がこの考え方に出会ったのは、かれこれ10年前。そのとき目にした記事には「舌教育」という言葉が使われていました。もっともこれはフランスで1991年から始まった、小学生向けの味覚教育のレポートでした。

一方、時を同じくして出会ったのが、アメリカやデンマークなどの食育を紹介した砂田登志子さんの著書「フードファイト」(法研発行、1994年刊行)。そこには、必ずや日本にも来るであろう食育の大きな波の、必要性と予感が力強く書かれていました。砂田さんは、子どもたちに「体育と同じように食育も必要」「1992年が日本の食育元年」とおっしゃり、それからめざましい活躍を続けていらっしゃるジャーナリストです。

当時私は、私ひとりの判断で与え続けている餌だけをたよりに、日増しに様子を変えていく我が乳飲み子を片手に抱き、もう片方の手には責任の重い仕事も抱えていて、日々パニック、日々締め切り破りに頭をかきむしり、爆発しては涙を流していました。そして、この舌教育、食育という言葉にぶちあたり、「乳飲み子に対する責任の重さ」を突きつけられたとき、途方もない無力感に襲われてしまったのです。

それから、むさぼるように求めた本の数々(しかし、当時はまだとても少なかった)、フランスにも何度か行き、フランスの小学校や各種のイベントの取材、日本でも様々な人に会い、話し、娘の保育園の食教育も特別に願い出て参観。その結論が、「たった一人の母親にできることには限界がある。限界があっていい。無理だ。一人でがんばるのは、もうやめよう」ということでした。

食べ物について、日本は今とても、複雑なことになってしまっています。土からも離れ、基本的な技術も十分学び損ねたまま母になり、その一方で、「子どもたちに、本当にいい食べ物を」と様々な情報が飛び交うと、マジメな母親は、ほんとうに疲れちゃう。

そして、マジメな母から順番に(?)「食教育」「食育」という言葉に出会うのです。

でも、それっていったい何? どうすればいいの? という聞き返しに何度もあってきました。
そこで、このコーナーでは、少しずつ、その道筋の案内をしてみたいと思っています。

言葉は「食教育」も「食育」も、今は同じように使われているようです。語呂のよさ、好き嫌いが優先でもいいのかも。ちなみに私は「食教育」という言葉が、しっくりして好きです。でも、語呂はやや重いかもしれませんね。ただ、先日ある方から「『教育』という言葉は日本で明治に英語の訳として生まれた言葉なんですよ。本来educationのもとになっているラテン語のeducoは『引き出す』という意味なんですよ」と教えられ、いたく感激しました。引き出す、とはその人の個性や可能性を引き出す。そういうeducationの意味を大事にした「食教育」なら、いいですよね。上から下へ教えるのではなく、互いの個性を引き出しあう。食べ物を真ん中において。

そして、親子で、家族で、仲間たちで、みんなして、おいしんぼ上手になりましょうよ。

まつなり ようこ