No.15
余白の効用
またまたご無沙汰しておきながら、いきなりこんなことを書くのもなんですが。
元来、面倒くさがり屋で、無駄なことが嫌いです。何が無駄かについては人によって優先順位がちがうので、ここでは触れません。今、ひっかかっているのはそういうことじゃなくて。自分は無駄か無駄じゃないかの判断が、どうやら他人よりも早いということ。そして一度見切ったものには、結構冷たいということ。最近、そういう自分の傾向を危ぶんでいるのです。
たいがいのことに必要・不必要、好き・嫌い、可能・不可能の答えがはっきりしているため、よく言えばさっぱりした正直な性格なわけですが、要は、一度でもマイナス思考がよぎったことに、またわざわざ向き合うのが面倒くさい。それよりも、自分の興味があること、面白いと思うことに時間を使ったほうが、合理的な生き方というもの。小さい頃からそういう性格でしたが、働くようになって、年を経てなおいっそう、そういう考え方は強くなっていった気がします。
でも本当にそれでいいの?
ひょっと立ちどまって考えてみるわけです。
雑誌や本の世界では、誌面の中で一見「無駄」とも思える「余白」が実は大切だったりします。文字や写真をあえて載せないことで、生まれるものがあるからです。
たとえば。読み手は余白から、文字には表されなかった書き手の「空気」や「間(ま)」を読み取ったり、読み手自身が感じたことを余白の上に自由に載せて、心地よい余韻にひたったりすることができます。一見、何の意味もないように見えて余白には書き手と読み手をより密に繋ぐ効用があるのです。
自転車のファンレース「バイシクルライド」に参加してきました。 忙しない都会もゆっくり走ることで、新しい発見があります。
たぶん今の私には、この余白がもっと必要なわけで。自分にも相手にも無駄のない行為を知らず知らずのうちに求めていること。相手に余計なエネルギーを使わせる前に、自分から察して前に進むことが、スマートだと思っていること。でもこれではまるで、改行無しの文字でぎゅうぎゅうの誌面のよう。本を作る側から見ても、ちょっとカッコ悪い…。
無駄を適度に楽しむ余裕とか、不意に受け取ったものを、さらに膨らませたり、深めたりする発想の転換とか。そういう小技を身につけることで、交わすことができる笑顔や、感じられる人の温かみ、さらには自分の好きな「面白い」や「楽しい」がもっと増やせるのかもしれない。
そのことにようやく今ごろ気が付いたというわけです。無駄なく前に進んでいたようで、案外、歩みは遅かったのかも…。
なんだか、めちゃめちゃスピードの出てない車みたいでしたね(照)。
編集スタッフ 藤井 久子